グローリーサンデー
って何や?と思われますが、
コレは私の推し馬 サイレンススズカ と ウマ娘 が元ネタとなっており、それにあやかってHNにしました。
⬇ここからは 実馬 サイレンススズカ について私なりにまとめました。
大雑把かと思いますが💦ご容赦願います🙇♂️
また、この題は私自身熱が入り😳複部構成としました。😅
サイレンススズカは父サンデーサイレンス 母 ワキア の配合で稲取牧場にて1994年5月1日に誕生した。
1997年 (1年目)
2月1日 4歳(現3歳)新馬戦[京都 1600m]にて上村洋行騎手鞍上でデビューし、逃げの手でスタート。結果2着のパルスピードに7馬身差をつける快勝で1勝を挙げる。当時観戦していた記者は、今年のダービー馬として目星をつける人も多く、また5着プレミアートに乗っていた武豊騎手も、皐月賞・ダービーをも狙える馬なんじゃないかと言っていたほどの強さだった。
3月2日 G2 弥生賞 [中山 2000m]
陣営は皐月賞を狙っており、トライアルレースである弥生賞に参戦。しかし、発走直前にゲートをくぐってしまうというハプニング。上村騎手も足を負傷し当時は岡部騎手が代役の準備をしていたが意地で騎乗することを決意。しかし大外発走やテンションが上がりすぎたことにより8着に終わる。ゲートをくぐってしまったことに関して原因は、厩務員の加茂さんを気に入っており、厩務員が居なくなって寂しくなったからと推測が立てられている。なお、この出来事により、20日の出走停止とゲート再試験という処分がJRAより下された。
4月5日 4歳500万以下(現3歳1勝クラス) [阪神 2000m]
仕切り直しの初戦。サイレンススズカが出走すると分かった際に続々と出走回避を表明するが現れ、12頭立てのレースとなった。結果は新馬戦と同じ、2着のロングミゲルに7馬身差をつける快勝だった。
この後、陣営はダービーを目指しトライアルレースであるG2青葉賞を出走予定したが、左前脚球節炎を発症し、回避を選択。
5月10日 OP プリンシパルステークス [東京 2200m]
同じくダービートライアルレース。橋田調教師が上村騎手に抑える競馬を指示。レースも2番手追走し、残り400mで先頭に出る。最後はランニングゲイルとマチカネフクキタルの叩き合いとなるが、マチカネフクキタルにクビ差を制し、ダービー出走権を獲得。そのままダービーへ出走。
6月1日 G1 東京優駿{日本ダービー}[東京 2400m]
このレースからサイレンススズカに興奮しない様に緑のメンコがつけられた。また橋田調教師は上村騎手に前走同様、抑える競馬を指示。スタート直後は、皐月賞馬サニーブライアン、フジヤマケンザンに次ぐ3番手追走で展開。しかし第3コーナーから仕掛けようとするも展開が向かず、9着に敗れる。
また、今回も逃げ勝ったサニーブライアンは皐月賞と2冠達成した。
「サニーブライアンだ、サニーブライアンだ!!これはもうフロックでもなんでもない!二冠達成~!!これはもうフロックでもなんでもない、サニーブライアン堂々と2冠達成です!! 」 というフジテレビの三宅正治アナの実況とともに有名となったこの大舞台。かつて新馬戦で記者や武豊騎手に皐月・ダービーはこの馬が獲るだろうと言われたサイレンススズカと明暗が分かれた時でもあった。
9月15日 G2 神戸新聞杯[阪神 2000m(現2400m)]
ダービーの惨敗からの仕切り直しの緒戦。この時陣営は菊花賞ではなく、天皇賞・秋を見据えた。
レースはハナを切り、1000mでは後続と3馬身離し、最終直線400mでは4馬身を離すほど快走であった。しかし、鞍上の上村騎手はターフビジョンを見て、これなら大丈夫だろうと慢心したところ、後の菊花賞馬マチカネフクキタルに差されて2着という結果に。上村騎手自身としては、ダービーのこともあるし楽に勝たせたかったと後に語っていた。これにより、サイレンススズカと上村騎手のコンビは解消となり、最後の騎乗となった。
次に河内洋騎手が主戦騎手となるが、調教でも上手く乗ることは難しかったと漏らすほど。
10月26日 G1 天皇賞・秋[東京 2000m]
11月16日 G1 マイルチャンピオンシップ[京都 1600m]にて陣営の指示通りの忠実な騎乗をするが、6着・15着と結果を出すことが出来なかった。
12月14日 G2 香港国際カップ[沙田 1800m](現 G1 香港カップ 2000m)
河内騎手はマサラッキに騎乗のため、乗り替わりとなる。ここで同じ沙田で行われる G2 香港国際ボウル1400m(現 G1 香港マイル 1600m)にてシンコウキングに騎乗する武豊騎手が【騎手は騎乗依頼を待つ】というタブーを破り、橋田調教師に直接逆騎乗依頼をし、陣営も承諾。結果は5着に敗れるも、武騎手は「抑えるよりも、馬の好きなように走らせた方が良い」と感触を得た。
ここまでは、抑えて番手を付ける競馬をしてきたサイレンススズカと陣営。
ここからは逆に好きな様に走らせるという方針に変えたサイレンススズカと武騎手のコンビによる快進撃が始まった。
1998年(2年目)
2月14日 OP バレンタインステークス[東京 1800m(現ダート 1400m)]
始動戦となるが危なげなく快勝でスタート。
3月15日 G2 中山記念[中山 1800m]
勝利はしたものの、ここで直線でモタれたり手前を替えるのが遅かったため、右回りは得意ではないと結論付けた。
4月18日 G3 小倉大賞典[1800m]
通常は小倉大賞典は、小倉競馬場(右回り)にて行われるが、この年は改修工事のため、中京競馬場(左回り)にて開催された。また斤量もトップハンデとなる57.5キロが課せられたが、当時のコースレコードを1コンマ更新する1.46.5で快勝。
5月30日 G2 金鯱賞[中京 2000m]
中京競馬場にて重賞連走となったこのレースでサイレンススズカによる代名詞【逃げて差す】競馬が完成した。
最後に差されたG2神戸新聞杯からG2京都新聞杯、G1菊花賞と重賞3連勝中 マチカネフクキタル
デビューから着外無し タイキエルドラド
重賞2連勝含む6連勝中 ミッドナイトベット
という強敵揃いのメンバーの中、スタートしてハナを切り、第2コーナーで2番手グループに4〜5馬身をつけての逃げ。最後の直線で更に突き放し、武騎手もビジョンを見ながら流すほどの大逃げ切り勝ち。観客は大拍手で、実況の藤田直樹アナ(ラジオたんぱ)も最後の100mで「4連勝だ4連勝。重賞は3連勝」と言ってしまうほどの強さ。終わってみれば2着に入ったミッドナイトベットに1.8秒ほどの大差をつけ、レコード記録となる1.57.8の圧勝劇。前半1000mを58秒1、後半を59秒7(3F36.3)で仕上げるというレースぶりに誰しもが驚いたことだ。このことからも武豊騎手はサイレンススズカは【理想のサラブレッド】だったとインタビューで語るほど。
なお、重賞による大差勝ちは、この金鯱賞(1998年5月)を最後に現時点(2023年9月)まで居ない。そういった背景もあり、サイレンススズカの伝説のレースと讃える声がある。
陣営としては、ここから当初の予定では、秋の天皇賞に向けて夏は休養に入るつもりだったが、宝塚記念の投票結果(6位)とサイレンススズカの現在の状態が疲れがなく、馬体が充実しているという状態を加味し、考えを改めて夏のグランプリ参戦が決定した。
長くなりましたが、1部はここまでとさせていただきます🙇♂️ まだまだ続くと思いますが😅最後まで見て頂けたら幸いです🥰
次回↓
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